岩手県陸前高田市で被災
岩手県陸前高田市。私が中学3年の次の日が卒業式だった8年前の3月11日東日本大震災です。
その日は生徒全員早く家に帰され家でくつろいでました。そして14時46分。あの巨大地震が起きました。私の家からは海が見えます。
これはヤバイと思い外に出て海を見てました。みるみる塩が引いていき渦を巻き始めたのをずっと見てました。
近所はおじいさん、おばあちゃんが多く、津波来ないから大丈夫だとのんきに逃げる気配がなく私は海を見ながら近所を走り回りおじいさんおばあちゃんを高台にある公民館に連れていってるときです。
ものすごい勢いで津波が押し寄せて来ました。
押し車を押して逃げるおばあちゃんが見え、戻ったら津波に飲まれる所まで押し寄せて来ていてそれでも助けなきゃと思いおばあちゃんの所へ行きおんぶしたい時です。
道路がすでに水浸しになって走って逃げるのは無理でした。
でも幸い海から民家があるところまでかなりの傾斜があったので波の速度が遅くなったのが幸いで何とかギリギリ高いところに逃げる事ができました。
その日はみんな助かり、次の日を待って明るくなったとき家に戻ったら海から10メートル以上離れてた家が跡形もなく無くなっていました。
もしあの時逃げるのが遅かったらこのまま流されて死んでたと考えるとものすごい恐怖でした。
(岩手県 女性)
追いかけてくる津波の恐怖
私は平成23年の3月まで、宮城県に住んでおりました。東日本大震災が起こる前までのことです。震災が起きたその日、私は実家の二階で仮眠をとっておりました。
グラグラと、波のような大きな揺れに目を覚ましました。食器棚の皿や器が床に投げ出され落下し、大量に割れました。はじめは大きい地震だなぐらいの気持ちで様子を伺っていましたが、長時間に及ぶ大きな揺れは一向に収まることを知りませんでした。
心配になり、親や親戚に携帯で連絡をとってみましたが、繋がりません。不安になりテレビをつけると衝撃の映像が私の目に焼き付きました。おぞましいほどの水が家屋や車をなぎ倒し、飲み込んでいく悲惨な映像です。
私がはじめて津波というものの怖さを実感した瞬間でした。
不安は恐怖へと変わり、すぐさま高台にある避難所へと向かう準備をしました。必要最低限の物だけを携えて必死に力の限り走りました。
普段であれば数人は行き交う道路には、その日は不思議なぐらい全く人通りがありませんでした。いつ、あの恐ろしい津波がやってくるのか心配でたまりませんでした。
気が動転しており、少し曖昧なのですが、走り続けて恐らく十数分経った頃でしょうか。聞き慣れない音が背後から聞こえてきました。
間違いなく津波のものでした。振り向きたくありませんでした。その波を見てしまったら気がどうかしてしまうのではないかと、そう思ったからです。
今思えば、家の心配をせずに走り続けようとした判断は正しかったのだと痛感しています。
(大阪府 女性)
東日本大震災当日に様々な要因が重なり無事だった体験談
東日本大震災の日のことです。私は当時、福島県の沿岸部にある会社で働いていました。
11日もシフトでは出勤予定でしたが、数日前に同僚から急遽休みを代わってほしいと頼まれていたのでやむなく休むことになりました。
当日、私は家族と一緒に茨城県の沿岸部に遊びに来ていました。そこは普段からよく散策に来ている地域で、その日も通常であればコンビニでお弁当やお菓子を買って近くの港(いつも釣人がたくさんいて、近くには小規模の商業施設あり)で食べる予定でした。
しかしたまたま立ち寄ったコンビニで私や家族の好きなお弁当が品切れだったため気乗りがしなくなり、趣向を変えてファミレスにでも行こうということになりました。
そのまま海から離れたファミレスで食事をとり、近場のスーパーで買い物をしている時、大きな揺れが来ました。
二階にいたからかかなりの揺れで、商品棚が倒れたり照明が消えたりしてちょっとしたパニックに陥りました。
店員の誘導で他の客達とどうにか外へ逃げ出し、家族とも無事再会出来ましたが、ただ事ではないと実感しました。
地元に帰り、落ち着いてから会社に電話しましたが誰も出ません。急いで仲の良い同僚の携帯にかけましたが繋がりませんでした。
翌日ようやく繋がり、あのあと会社は津波で流されたが、社員はみんな高台に避難して無事だった旨を聞きほっとしました。
しかし同時にゾッとしました。
何故なら当時、私は足を骨折して松葉杖をついていたから。
当日会社にいたら逃げるのが遅れて流されていたかもしれないし、同僚を巻き添えにしてしまったかも知れません。そして遊びに行こうと思っていた茨城の港も津波で大きな被害を受けていたことを知り、当日お弁当が売り切れていて本当に助かったと思いました。
(福島県 女性)
幕張メッセで東日本大震災で被災
私が体験した九死に一生は、千葉県幕張で2011年3月11日の東日本大震災です。
その当日は幕張メッセで大きなドラッグストアショーという展示会が開催されていました。その際ブースにたくさんの商品を飾り付けしたり、装飾品を取り付けていたのですが、物凄い揺れは突然やってきて、皆一目散に非常口へ駆け出すというひどい状況でした。
その際、人が人を押して我先にと出ようとする人がいたので、将棋倒しが起こりました。
その時がわたしの九死に一生だった経験です。
その日は自宅に帰れなかったのですが、揺れが落ち着いて、避難したところで津波の映像を見て千葉県の幕張が震源ではなかったことき驚きました。そのくらい千葉の方でも揺れが激しかったです。
地震の直後はヘリコプターが飛び交い、まさに日常ではない光景が千葉でも広がっていました。
あの時関東に住んでいた人は誰しもが自分の命のことを考える目にあったのではないでしょうか。
私自身あの日のことは今でも忘れられず今も幕張方面にはなかなか足を向けることができていません。
幕張での体験はこれから先も子供に受け継いでいきたいと思っています。
地震が来た時は非常口へ逃げるのが鉄則ですが、それによって人災に巻き込まれる可能性があることを学んだからです。もうこんなことは起きてほしくないと切に願っています。
(東京都 女性)
危機一髪で生還
宮城県で起きた東日本大震災。今から7年前の事です。
地震が起きた当時は家に祖母と一緒に居ました。地震が来て家の中は滅茶苦茶になってしまい片付けをしていました。
突如鳴り響いた防災無線では「●●地区、大津波避難してください」との放送で慌てて外に出ると遠くの方がキラキラ光っていました。
近所の方もあれは津波だ!と言い車に乗り込んで逃げ出しました。
私も逃げ出したかったのですが祖母は車椅子に乗っていて当時は学生の私は車の免許もなく途方にくれていました。そんな事をしているうちに津波が迫ってきます!あと数メートルしかない所まで来てしまい玄関から動けず祖母の車椅子を握っていました。
すると走りながら来た男性が何も言わず祖母を抱っこして我が家の2階に上がりました。
その数秒後に物凄い音が鳴り響き叫びましたが叫び声さえも聞こえない大きな音にかきけされました。
部屋の窓から外を見ているとどこからか流れてきた車が庭の倉庫にぶつかって、そのまま流れていったのを見ました。
祖母と私は放心状態でした。
助けてくれた男性は52歳の元介護士さんで物を取りに戻ってしまい車が巻き込まれて自転車で逃げてる時に私達を発見してくれたのです。
感謝してもしきれません。
その日の夜は木材等に捕まりながら流されていく人も見ました。
二度と体験したくない忘れようにも忘れられない出来事でした。その後、やってきたヘリコプターに救助されました。
(宮城県 女性)