トンネルを越えて花畑に行った体験談
10年前、皆さんは大きな交通事故に遭ったことはあるでしょうか。
私は大学生のころ、車の後部座席に乗っていて、車が電柱にぶつかった衝撃で気を失ってしまいました。
目が覚めたときには救急隊員の方に「大丈夫ですか」と声をかけられていたのですが、実は意識を失っている間にお花畑に行っていました。
花畑がどこにあったかというと、長く暗いトンネルの向こう側です。
そこには綺麗な花がたくさん咲いていて、とても魅力的な場所だったのですが、川が一本流れていました。
今思うと、あれが三途の川だったのかと怖くなります。
また、川の向こうから、何年も前に亡くなった私の大叔父さんが名前を呼んできました。
大叔父さんはとても良い人だったので、思わず向こうに渡りそうになりましたが、でも、家族が待っているし、とためらった末にトンネルを戻ることにしました。
そこから意識が戻ったわけです。
それまでは臨死体験とか花畑とか全然信じていなかったドライな私でしたが、この経験のあと考えが丸きり変わりました。
生きていることって本当にすごいことなんだ、と思うようになりました。
(栃木県 女性)
ピンクのふわふわの雲の中
私が臨死体験をしたのは20歳のころその時に住んでいた鳥取県でのことです。
当時具合が悪く病院に自分で運転をして向かっていたのですが、一瞬意識を失いそのまま道添いの川に車ごと転落してしまいました。
高さにして5メートル以上の高さから転落したためかなりの衝撃で、死んでしまうと思ったのを覚えています。
そのあとはピンクのふわふわとした雲の中にいました。
ふわふわの雲の中に5重の塔のような建物も見えました。
とても綺麗な空間でしたのでしばらくぼんやりと眺めていました。
すると光が強い場所があり、そこに行かないといけないような気がして歩いていきました。
体は軽く飛ぶような感覚でした。
とても気持ちよかったのを今でも覚えています。
その時は死にかけていたなんて思いもしませんでした。
ふわふわと飛んで進んでいると急に名前をよばれます。
いけない戻らなくてはと感じたら、目が覚め病院のベットの上でした。
母が必死に私の名前をよんでいました。そこでやっと死にかけていたんだと実感。
これが臨死体験だったんだと気がつきました。
戻ってこれてよかったです。
(鳥取県 女性)
全く記憶がない!
これを臨死体験と言えるかどうかは分かりませんが、少なくともその期間は意識が全くなかったので、臨死と言っても差し支えないと思います。
それは、アマチュアボクシングの国体予選で、関西大学の選手とやったときです。
試合開始のゴングが鳴ったのは覚えているのですが、私の記憶はそこまでで、次に気が付いたのは自分の控え室で、横になっている自分でした。
ノックアウトされたのが、2ラウンドの2分30秒ですから、恐らくは、1ラウンドの戦いもKOされた後の挨拶も自分だけでやっていたとセコンドの人にあとで聞きました。
その後、控え室で横にさせられて、介抱されていた時に自分に気が付きました。
文字通り、俺はだれ?ここはどこ?の世界でした。
セコンドによると、その間約10分程度だった。
記憶が50年以上たった今でも、リングに上がって、ゴングが鳴った以上の記憶がありません。
その後の事はオーバでは無く、臨死状態だったのでしょうね。
今思い出すと、ゾッとするような健康管理です。
今では脳挫傷を防ぐ為に、余り動かさないで、ストレッチヤーで横にしたままリングから医務室に直行するべき負け方ですね。
その間の時間的経過の感覚もゼロと言うことは、死ぬと言うことはあらゆるものがゼロというか、何にもない空ということを自分の身を通して理解しました。
(神奈川県 男性)
川岸の向こうから手招きする女
私が体験した臨死体験は、3歳くらいの事の話です。
姉の運転するバイクに同乗していた際に、交通事故に遭いました。
事故の事は全く覚えていないのですが、その後の臨死体験については今でも覚えています。
真っ白な霧に覆われた空間の中にわたしがいて、熱くもなく、寒くもありませんでした。
少しすると目の前に川があることに気づきました。
その川を渡ろうかどうか考えていると、向こう岸に髪のとても長い、白い着物を着た女性が立っているのに気づきました。
こちらが気づいたことに気づいたその女性は、こちらを見て白く細い腕を少し掲げ、手招きをしてわたしを向こう岸に呼び始めました。
そこでわたしは向こう岸に渡ろうとするのですが、川の中に入っていくことができません。
流れもそんなに急ではないのですが、深さがわからないからか、戸惑っていたことを今でもはっきり覚えています。
そうこうしているうちに、どこからともなくわたしの名前を呼ぶ声が聞こえてきました。
その声は、向こう岸にいる女性からのものではなく、どこか聞き覚えのある声だったので、その声がする方へ意識を向けたところ、目が覚めたのです。
実際に、交通事故にあった後は集中治療室に搬送され、お医者様からは今夜が峠です、と宣告されていたようでした。
あの交通事故からもう何十年も経過していますが、今でもハッキリと覚えています。
(東京都 女性)
夕焼けの海岸
宮城県に住んでいた時、自転車でいつものように大学へ向かっているときに、車との接触事故に遭いました。
信号のない横断歩道で自転車の私が通っているところに、車が突っ込んできました。
スピードは全然出ていなかったのですが、私は自転車ごと車のボンネットに乗り上げ、地面に叩きつけられました。
自分自身では、ボンネットに乗ったあたりから周囲がまるでスロー再生しているかのようにゆっくりになり、地面に頭がついたところで場面が切り替わり、砂浜に立っていました。
とても綺麗な夕焼けが見えて、海が呼んでいるような不思議な感覚で、サンダルを脱いで海の方へ入って行きました。
膝くらいまで使ったところで、急に「…寒っ!」と思い、寒いのが苦手な私は必死に砂浜まで走りました。
それでも足はもつれるし波にさらわれるし、なんだかいつもと違うなあと思っていたら後ろから大きな波がきて、浜の方へと送り出される形になり、無事砂浜にたどり着きました。
海の方を見ようと振り返った時に、目が覚めました。
心停止まではしていなかったようですが、強く頭を打って脳震盪のような状態になっていたようです。
気づいたらまだ道路の上で、人だかりができていました。
奇跡的に右下肢の擦り傷だけですみ、後遺症も何もありませんでしたが、一瞬見たあの海の景色はもしかしたら三途の川だったのかと思うとゾッとしました。
(海外在住 女性)
きらきらと光り輝く世界
岩手県盛岡市で交通事故にあった時の話です。
事故の瞬間は、トラックとぶつかりそうになり、前のタイヤとタイヤの間に体が入っていったところまで覚えています。
次に記憶があるのは、きらきらした光の世界です。
星のような、光る花のような、みたことがないきれいな景色が広がっていました。
とても美しくて、温かく気持ちがよくて、ずっとここにいたいような気持ちでした。
そこでは周りに人がいませんでしたが、まっすぐ進んでいくと誰かがいるような気がしました。
その誰かのところへ行かなければいけないような気がして、光の世界の中を進んでいきました。
歩く、とか、走るとかではなく、からだが浮いていて進んでいるような感じでした。
浮いていたのかもしれませんが周りの景色が動いていたのかもしれず、よくわかりません。
もうすぐで誰かのところへ着く、ところで意識が突然変わり、病室に寝ていました。
一気に体が重くなり、嫌な気分になりました。
これが生きているという事かと思いました。
あのまま光の中を進んでいたら、命は消えていたのかもしれません。
きっと死ぬときはこういう感じなんだな、と思いました。
(神奈川県 女性)
意識不明中に見た不思議な夢
これが臨死体験だったのかよく分かりませんが、10年前突然倒れて1週間ぐらい意識不明になった時のことです。
いまだにあれは夢だったのかどうだったのか思い出すこともありますが、不思議なことに鮮明に覚えているのは、「ピンクの骨壷」と「淡いピンクの棺おけ」、そして沢山の「精進料理」が並んでいる風景です。
ピンクということは女性なのだろう。
私なのだろうか?ピンクだけはしっかり記憶しています。
そして私が昔子供の頃数回しか会っていないあまりよく知らない親戚のおばさんが葬式会場なのか?にいました。
よくわからない広い部屋で彼女があちこち色々動いてる様子が見えました。
そこにはなぜかその親戚のおばさんだけしか見えず、私の家族も、友達も全くいなかったような気がします。
それが不思議とも思わず、そんな光景だけ断片的に覚えていています。
今でもふと思い出したりします。
あの光景は何だったのだろうか?
覚えているにはそんな光景だけでただ悲しいとかという感情は全く感じなかったような覚えがあります。
親戚のおばさんが当時生きていたのかすでに亡くなっていたのかも正直覚えていません。
意識が戻っても、家族が言うには訳のないことばかり発していたらしく、すごく暴れていたらしい。
ただ暴れていたのは呼吸が苦しくなった時に違いないと思っています。
そして転院した夢は集中治療室から一般病棟に移った時だと思っています。
勿論覚えていないけど。
すでに絶望的だった私を医師の懸命な処置と家族の声掛けがあったから、脳に障害が残っているものの、こうして生きているんだとみんなに感謝しています。
(山口県 男性)
河原にある綺麗なお花畑
10歳の頃に死にかけてあれが臨死体験だったのか分かりませんが不思議な体験をしました。
お正月前に長野の山奥に合った我が家の山小屋へ家族でスキーをしに行った時の事です。
昼間は晴天で比較的暖かかったのですがスキー場から帰ってくると雪が降りだして夜遅くには吹雪になりました。
その為翌日は家から出られず一日中家の中で過ごすことになりました。
大昔の山小屋ですから断熱性が悪く家の中でも口から出る息が白くなるほど寒かったのを覚えています。
父がリビングの薪ストーブに火を入れ皆で暖を取っていたら急激に眠気が襲い吐き気がしてきました。
すると見知らぬ白髪の老人がニコニコと私に笑いかけてきます。
気が付くと周りはお花畑でした。
良く美瑛とか河原がお花畑になっているような感じでとても良い気分です。
良い花の香りも漂ってきて「ここにいたいな」と自然と思っていました。
よく見るとお爺さんだけではなく色んな人間がいて楽しそうにこちらに笑いかけています。
でも足がそこから動かなくて行きたいのにいけないなと悲しい気持ちになりました。
遠くから父が私を呼ぶ声がしてその声がどんどん大きくなり気が付くと山小屋の中でした。
どうやら薪ストーブの煙突が詰まっていて一酸化炭素中毒を起こしたようです。
体の小さい私が一番先に倒れ、次に姉、母と意識を失ったのです。
中毒に気づいた父が家中の窓を開け事なきを得ました。
あのお花畑は何だったのかと考えると天国への入り口だったのかなと思います。
(静岡県 女性)
花畑を歩いていると私を呼ぶ声が聞こえた
現在、東京都に住んでいますが、体験は約50年前の6才の時のものです。
その頃は広島市に住んでいました。
私は先天性の心臓病で手術が必要でした。
今では同じように病気で亡くなる方はほとんどいませんが、まだ医療が現在ほど発達しておらず、心臓手術、ましてや子供というのは大変難しいものでした。
6人部屋に入院していましたが、いつも遊んでいたお姉さんは、ある日、手術室に行ったまま帰らぬ人となってしまいました。
私はまだ死の意味もよくわかっていませんでしたが、大人たちが次は自分の子供の番ではとナーバスになっているのはわかりました。
いよいよ私の手術日になりましたが、どうやって手術に向かったかは覚えていません。
ただ、周りの会話では、一旦は死んだ状態になるといったことのようでした。
手術中、わたしは道の両側に花がずっと咲いているような所を歩いていました。
歩いても歩いても花の間の道。明るく陽が差していました。気持ちよく導かれる方向にふらふらと歩いていました。
その時です。
母の私を呼ぶ「ひろちゃん、ひろちゃん」という大きな声で目が覚めました。私はなかなか目覚めなかったようで、目を開けた私を見て母は泣いていました。
あの時、母が大きな声で呼ばなければ私はあちらの世界に行っていたのではと思います。
(東京都 女性)